ユダヤとの付き合い方 2

2005年4月30日の写真、母親が孫と遊んでいるところです。

ユダヤとの付き合い方を、もう少し深く考えてみました。

私は20代からの自身の経験をもとに自分の思う所をただ書いているだけです。ユダヤに対する敵愾心を持ったことはありません。

それでもユダヤは殺すときは殺す。今まで私が生きてこられたのは誰かの助けがあったからだと思っています。なぜ私は助けられたのか、それが「ユダヤとの付き合い方」にあるかもしれないと思って書いています。

私が滋賀大の学生だった頃、山科から彦根まで電車で通っていました。ある朝、彦根駅のホームから改札口に行く通路の階段を登ったところで、私はいつの間にか男性の車椅子を押していました。階段を下りるところまで車椅子を押したが、車いすを放置して、私は一人で階段を降り、そのまま学校へ行きました。

その後、その車いすの男性には2回ぐらい、彦根駅周辺で会いましたが、私が声をかけることはありませんでした。

あの時、もしも私がその男性に声をかけていたら、私は彼の奴隷になっていたか、死んでいたのではないかと、今振り返って思うのです。

なぜ、そう思ったのかは、後にCIAの刑罰の仕方を知ったからです。時間が経たないと本当のことはわからない、生きている意味がここにあります。皆さん長生きしましょうね。

もう1つ、忘れられない経験は、私が2度目の池田町長選挙に出馬するためにビラ配りを一人でしていた時のことです。池南を歩いていた時、1台の小型飛行機が飛んで来た。私はすぐに物陰に隠れた。近くで座っていた老人が「あんた何をしたんや」とたずねたくらい、真っ直ぐに私に向かって飛んで来た。

でも私は生きています。色々な方の助けによって。

私の生き方が日本の生き方にも通じるような気がしているのですが。

平和憲法を持っていても、武器を持たなくても、日本は生き延びられると思うのですが。

このエントリーを含むはてなブックマーク Buzzurlにブックマーク livedoorクリップ Yahoo!ブックマークに登録

タグ

2025年10月13日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:ブログ

トラックバック&コメント

この投稿のトラックバックURL:

コメントをどうぞ

このページの先頭へ