自己責任
ホテル千秋閣で見つけた作品、涼しげですね。
今日は三縄ふるさと祭りでしたが、私はあまり外に出ませんでした。私は怖がりで臆病なんです。
8月7日の”平和の夕べ”を思い出しています。机をはさんで男性が立っていました。私の方は見ていませんでした。体が大きくて頑丈そうな男性でした。白っぽい背広を着ていましたが、顔の特徴はありませんでした。手には何も持たず、ぶらりと垂らしていました。こんな男ならば、刃物を持たずとも人が殺せるだろうな~と考えながら、私は男性をジロジロ見ていました。いつのまにか男性はいなくなったので忘れていました。その男性が、どちらから来て、どちらへ行ったのかわかりません。気が付いたら目の前にいて、気が付いたらいなくなっていました。
社会のしくみのかじり方、石川康宏氏の言葉です。
2015年1月に「イスラム国」を名乗る武装組織によって、日本人が殺されてしまうという事件がありました。事件の後で、ドイツのメディアがご遺族にインタビューをしました。その時、日本政府の誰も謝罪に来なかったということを聞いて、ドイツのスタッフは絶句したそうです。
スタッフたちの感覚は、人を殺した「イスラム国」が悪いのはもちろんだけど、国民の命を守ることに失敗した日本政府が、家族に謝罪に来るのは当たり前だというものだったのです。「国家は国民のためにある」ものだからです。日本国憲法も、そういう組み立てになっており、生存権・教育権・労働権を国家が守ることになっています。
しかし、実際に、この日本で生活していると、反対に「自己責任当たり前」「国に頼るな」という声が政府の中から聞こえてきます。「お金がないなら教育を受けられないのは当たり前」とか「大企業の競争力のために、労働条件を引き下げましょう」「財政赤字だから社会保障も引き下げて」というわけです。どうして日本は憲法からも、ドイツやヨーロッパの常識からも、大きくはずれた社会になっているのでしょう。
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2016年8月13日 | コメント/トラックバック(0) |
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