共同体の救済と病理

赤穂城の堀です。よく手入れされていました。

最近、何日かかけて、共同体の救済と病理、長崎浩、2011年発行を読んでいます。

はじめにで、著者は「この平穏な社会で、異質なものを排除する社会の反応が罪のない共同体をかえってコミューンへと追い立ててしまう。オウム真理教は、世を捨てた若者が富士山の裾野で行い澄ます道場のままでありえたかもしれない。ところが、子供の出家をめぐる親や家族、そしてマスメディアの反感に取り囲まれて、オウムは被害者意識で集団を内閉するようになっていく」と書いています。

しかし私は、オウム真理教だけではなく、共同体はそれ自身、救済と病理を同時に内包していると思っている。共同体の規則に従うという圧力は予想以上に強い強制力を持っている。だからこそ、学校でのイジメ、職場でのイジメが起こるのである。

誰もが守れるような緩い規則ならば問題ないのだが、しばしば共同体は微に入り細を穿つ規則を作ってしまう。それが病理の根源である。

共同体が大きくなればなるほど、規則の数は多くなる。規則を守れない者に対する制裁は強くなり、さらに、どんな規則があるかさえ分からなくなり現場での制裁が恣意的になる。そこで、常に制裁される者と、制裁する者の階級が生まれる。逃げる者と追いかける者の関係が出来上がる。

従って、共同体を組織する者は、逃げられる環境を常に用意しておかねばならない。共同体を支配する者は、逃げられない環境を常に作っておかねばならない、ということにもなる。

このエントリーを含むはてなブックマーク Buzzurlにブックマーク livedoorクリップ Yahoo!ブックマークに登録

タグ

2015年6月19日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:ブログ

トラックバック&コメント

この投稿のトラックバックURL:

コメントをどうぞ

このページの先頭へ