仕方がないというルール
今日は公民館で行われる「ふれあいサロン」に出席しようと思っていたが、下川先生がお亡くなりになったと新聞で知って、葬式に行った。よくしてくれていたのに忘れていた。お見舞いにも行っていない。癌だったということだった。
続 気くばりのすすめ 鈴木健二著 1982年発行
私たちの若い頃は、「気くばり」などというと、仕事をろくにせず、上にごまばかりすっている人というイメージがあって、このような本は買わなかった。母はこんな本を読んでいたのかと、改めて尊敬した。この中に、次のような事が書いてあった。
学校とはもともと自分の才能の芽を見出すところであるはずなのです。少なくとも高校を終わるまでに、学問か性格か能力か、どれでもいいから発芽させておく場です。ある人は大学でそれを苗木に育て、ある人はすぐに社会に出て育て上げていくのです。それが今は大学を終わっても、種をまくだけにすぎない感じがします。
日本人自身が、これまでの模倣する国民性を捨てて、考えたり創造したりする人間に大きく変化する必要に迫られています。いわば未来への大きな気くばりなのです。その中軸になるのが教育であり、制度的には大学であるはずなのです。
小学校も大学も先生から教わったことに一番近い答えを書いた人が優等生なのです。
大学は、就職の世話をするところでしょうか、学生たちから高い授業料をとって、大学運営の賛助会員にしてしまう場でしょうか。
教育が、30年前も今もちっとも変っていません。むしろ、管理が強まり、ますます自分の才能の芽を見出せないようになって、付和雷同型の人間を生産しているような気がします。
ニートについても、面白い見解を述べています。
若者たちが年寄と同じような行動をし、できるだけ早く年寄りの仲間に入り、年寄りと同じ生活を早くやりたいものだと思ったときに、社会は前途に対する希望を失ってしまうのです。
仕方がないのだというルールを、組織に適用したとき、いかなる組織もたちどころに崩壊するのです。お父さんが遅く帰ってくるから、食事がバラバラになるのは仕方がないのだと割り切ったら、家庭はだめになるのです。夕食がそろわなかったら、よし、それでは朝食を家族全員でとろうと、お父さんが朝30分早く起きてこそ、家庭のルールは保たれ、子供たちは元気づけられるのです。
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2014年6月15日 | コメント/トラックバック(0) |
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