和魂洋才
この写真は2016年に撮影した徳島植物園の映像だろうと思います。
和魂洋才と染め抜いたタオルをベッドサイドに置いて寝ています。滋賀大からいただいたものです。今朝、ふっと和魂洋才って、両立するものだろうか、もしかして、トレードオフの関係なのではないかと考えた。
そう考えているときに、朝日新聞の折々のことばに出会った。
「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」
戦前の事、林芙美子は独文学者の成瀬無極と哲学者の九鬼周造宅を訪れた。ひとしきり話をした後、小唄のレコードをかけると、この呟きを機に3人とも涙をにじませたとか。それぞれに「無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて」生きてきたのかと感じ入ったのだとか。
今日の天声人語にも、忘れられない話というものがあるという書き出しで、左官職人だった「オヤジの背中」を書いている文章を見つけた。「迷ったら父ちゃんを真似ろ。出世はできねえが、人の道に外れる心配はねえ」
漢学研究者の中には無知な日本人を小馬鹿にしたような記述が散見される。
洋才も似たようなもので、洋才が深まるにつれて、あるいは、洋才が普及するにつれて、和魂を小ばかにするようになるのではないかと。
滋賀大のタオルを改めて見ると「士魂商才」だった。滋賀大のタオルから連想したものだが、言葉は違っていた。
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2025年4月24日 | コメント/トラックバック(0) |
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